「土曜日の歌舞伎町。クソ暑い夏の終わりを告げる雨がじとじと降っていた。」
作家は処女作に向かって成熟するというが、なるほど、書き出しからして向こう見ずだ。かんばしいとはいいがたい我が小説業界の百花繚乱をあざ笑う一発の凶弾のようだ。
「おれはアウトローだ。ひとりで生き、ひとりでくたばる。」
「泣き言をいっているのは堅気だけだ。おれは泣き言をいわないかわりに堅気から金をかすめとる。」
主人公は台湾の父と日本の母を持つ三十過ぎの故買業に設定されている。台湾、上海、北京のマフィアが席巻して戦場となった新宿が舞台だ。人物はとばっちりを食って殺されるか、殺すかのどちらかだ。
ないものねだりは承知だが、ここには権力闘争の死はあっても社会の死に対する挑戦はない。食い物とねぐらを支える労働の死ははなから不問に付されている。それは、主人公を可愛すぎるあまりのやむをえない帰結だろうが、それにもかかわらず下積みの人物形象はいたるところで堪能させられる。とりわけ差別された少年群像の暴力描写がすごい。主人公は女を知り、女を愛し、女を殺す。そうせざるを得ないところに作者のたたきつけるような愛惜がある。
憐憫も憤怒もくそくらえというある種普遍的な、開き直った衝動だ。見えない敵など見えるわけがない、と食いつかんばかりだ。目くそ鼻くそを笑い、むなしい確執を続けるしかないこの時代の切実な祈りを踏みにじり、作品を象徴にまで謳いあげる喜びなど目もくれない。やがて無視される短命な作品でかまわないという覚悟が、最後まで貫かれる。
だからこそ、読者の胸に迫る。血が騒ぐ。そしてかくべつ意図もせず、作者は八百枚強の、この処女作で、差別の問題も殺戮の問題も民族の問題も、人道主義的善行を施こすジャーナリズムの食いしろの問題でしかないと、いともやすやすと一蹴してしまった。死が無価値なら生に価値があろうはずがない。全編にわたって飛び交う殺戮の銃弾より、むしろ、私はそのことに驚愕させられた。記して、敬意を表したい。
(文/田中洌)