◇原稿用紙五枚分程度の恋
◇オリジナル読みきり掌編
◇100題消化まで挑戦中
<7>
*****************************************
変わっている言葉で100のお題
058:復活してみたい
私の定位置はベンチの横である。かつて主人に連れられ闊歩した洒落た海沿いのレンガ道にあったような凝ったものではなく、背もたれのない古ぼけたベンチだ。
どこにでもあるようなこの小さな公園は、昼には小さな子どもを連れた母親達が、一体何処に収納されていたのかと驚くほど一斉に集まってくる。
ここで生活するようになってどのくらいになるのか、私には分からない。残念ながら野外にはカレンダーなるものが見当たらないし、例えあったとしても私は数が数えられない。
最初の頃は、私の身体が大きく逞しいことや、この立派な牙があることで、母親達はなんとか私を追い出そうとしていたようだった。しかし遠巻きになにやらを言われたくらいで彼らを恐れる私ではない。少しずつ人は少なくなった。
だがしばらくすると、ずっと離れた砂場にちらほらと親子が戻ってきた。私が主人の言いつけ通りにできるだけじっと地面に伏せ大人しくしていたからだろう。どうも近所に公園は少ないらしい。
ある日のことだ。私に寄って来ようとする子どもを引っ捕まえて砂場に連れ戻していた母親に、男が近づき、大声を上げ始めた。煩かった。顔が赤く、遠くからでもひどく不快なにおいがした。主人が夜遅くにご機嫌になって帰ってきたときと同じにおいである。
そのうち、子どもが大声で泣き始めた。煩かった。だが私は子どもは好きだ。主人の子どもはよく私のしっぽを引っ張ったが、代わりにちょこれいとなる甘い食べ物をこっそりくれるのだ。私より小さな者は守らねばならない。
私は男に向かって跳躍した。
それ以来、人間達の縄張りは私の方にずっと広がってきた。恩を仇で返すとはこのことである。
ベンチには様々な人間が座る。彼らは一様によく喋る。
昼間は母親同士がぴーてーえーだのおじゅけんだのと外国の言葉をぺちゃくちゃと声高に話し合う。私は耳を伏せてやり過ごす。煩い。私は昼の公園はあまり好きではない。
だが夜になっても人はよく喋る。昼と違うのは、彼らがほとんど暗闇と喋っていることだ。私には見えないが、きっと彼らには何かが見えているのだろう。人間の鼻は愚鈍だが、目は良いようだ。
ある夜、ベンチに女が座った。主人の奥方よりも大分若いが、子どもよりは年である。
最初女は、ぽち、と言った。それから、さぶろー、じろー、さぶ、こーたろー、ちょび、などと立て続けに不可思議な言葉を紡ぐ。最後に、たま、と言う。
隣の家の猫がそう呼ばれていた気がする。覚えのある音に耳がぴくりと動いた。だが私には関係ないことだろう。
「ねぇたま、私、来週旅行に行くの。沖縄に三泊四日で潜りに行くのよ。いいでしょう?」
旅行、という言葉に私は耳をぴくりとさせた。その言葉が出ると、主人らは数日家を空ける。そして留守は私に任されるのだ。敵が侵入しないように、私はしっかりと目を光らせる。
今は私が留守にしている。主人は城を守れているのだろうか。心配だ。
「彼と一緒よ。付き合い始めて5年くらいだし。もうそろそろだと思うのよね」
女の声は弾んでいた。そして帰っていった。
それ以来、女は度々ベンチに座って、たま、なる見えざる相手とお喋りをして行く。花のような服を着て、花のような笑い声を立てる。煩い。
様子が変わってきたのはいつ頃だろうか。
「ねぇたま、昨日ね、今度の週末は会えないって言われたのよ。もう何回目だろう。覚えてないけど。理由を聞いても教えてくれないの。おかしいよね。……っていうか、馬鹿じゃないかしら。仕事って言えばいいじゃない。一言でいいのに。そうしたら、信じるのにね」
女の服は相変わらず花のようにひらひらしていたが、伏せた私がちらりと横目で見る限り、やや布地が余り気味のようである。最初の時はそう感じなかった。やはり私の目はあまり良くないようだ。
「ねぇたま、あなた男の子なの、女の子なの? 大きな耳ね。ほら、御伽噺であるじゃない、おばあさんの耳はどうしてそんなに大きいの、それはね、お前の声をよっく聴くためだよ」
たまには大きな耳があるらしい。私も耳は自慢である。耳をぱたぱたと動かした。
主人はこの耳に白く細長いものを突っ込んで掃除をする。気持ちがいい。最後にしたのは随分前だ。
「私の耳も大きくならないかしら」
この公園は水呑場がある。しかもいつもちょぼちょぼと出ている。だがこの真夏にはいかにも足りない。
公園の向こうは大きなビルで、その下には大きな噴水がある。酷く暑い夜はしばしばそこに飛び込みたい気分になる。しかし私には出来ない。主人は私に、この公園で待つように言ったのだ。戻ってくるまでこの公園にいるようにと言ったのだから。
「ねぇたま」
女は同じ服を買うようだ。見るたびに布地の余りが多くなっている。主人の奥方はいつも違う服を着ていた。人間も様々であるらしい。
私はいつも一張羅の毛皮である。楽だ。
「もうすぐだと思うの」
確かいつかもそう言っていた。ならばあの頃からさほど時間は経っていないのだろう。ただ、なぜか女の声は弾んだ様子をなくしていた。
「おかしいわね。一人から二人になって、また一人になるだけなのに、多分、違うの。どう違うのか分からない。だから恐いのかしらね」
一人とはなんだろう。私には分からない。
「ねぇたま。あんたは何を待ってるの?」
不意に女が私の目を覗き込んだ。私は驚いた。信じられない。だがどうやら認めなければならない。
たま、というのは私のことなのだ!
冗談ではない。私にはサンダーという立派な名前がある。主人がつけたのだ。だから私は主人に仕えているのだ。だから私は待っているのだ。
「たま」
私はたまではない。だが、少し気になることがある。近頃は、サンダーという名前よりもたまという響きのほうをよく聞いている気がする。
「つらくて寂しいわ。悔しいし、悲しい。大声で怒鳴ってやりたいけど、泣いてしがみつきたい気もする。でもね、多分、もうダメなのね」
女は手を伸ばし、私の首に鼻を押し付けた。自慢の毛皮が濡れた。
「ねぇたま。私といらっしゃいよ。一緒に諦めましょう。だってあなたも一人だもの」
私は動かなかった。やがて女は立ち上がり、ぐすりと洟をすすった。ぽたりと艶のあるぴかぴかした靴に水滴が落ちた。女は歩き出した。
一人とはなんだろう。私には分からない。だが。
私は一人だ。そう思う。
なぜなら、つらくて寂しいからだ。悔しいし、悲しい。大声で吠えたいが、鳴いて追いたい気もしていた。あの時。
水滴の名前は知っている。涙と呼ぶのだ。あれは酷くしょっぱいが、私がそれを舐めると人間は笑う。主人の子どもも、奥方も、主人も、私が彼らのながすその水を舐めると笑う。
私の耳が大きいのは、きっとそのこぼれる音を聴くためだ。
私は立ち上がった。足の裏の地面はもう随分冷たくなった。その乾いた土を蹴って、飛ぶように、自慢の足で、私は小さくなった女の背中だけを見て、同じく一人であるその女を笑わせるために久しぶりのアスファルトを、全力で疾走した。