原稿用紙五枚分の恋

オリジナル小説

058:復活してみたい

2009-05-27 00:03:58 | 小説

◇原稿用紙五枚分程度の恋
◇オリジナル読みきり掌編
◇100題消化まで挑戦中

<7>
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変わっている言葉で100のお題


058:復活してみたい


 私の定位置はベンチの横である。かつて主人に連れられ闊歩した洒落た海沿いのレンガ道にあったような凝ったものではなく、背もたれのない古ぼけたベンチだ。
 どこにでもあるようなこの小さな公園は、昼には小さな子どもを連れた母親達が、一体何処に収納されていたのかと驚くほど一斉に集まってくる。
 ここで生活するようになってどのくらいになるのか、私には分からない。残念ながら野外にはカレンダーなるものが見当たらないし、例えあったとしても私は数が数えられない。
 最初の頃は、私の身体が大きく逞しいことや、この立派な牙があることで、母親達はなんとか私を追い出そうとしていたようだった。しかし遠巻きになにやらを言われたくらいで彼らを恐れる私ではない。少しずつ人は少なくなった。
 だがしばらくすると、ずっと離れた砂場にちらほらと親子が戻ってきた。私が主人の言いつけ通りにできるだけじっと地面に伏せ大人しくしていたからだろう。どうも近所に公園は少ないらしい。
 ある日のことだ。私に寄って来ようとする子どもを引っ捕まえて砂場に連れ戻していた母親に、男が近づき、大声を上げ始めた。煩かった。顔が赤く、遠くからでもひどく不快なにおいがした。主人が夜遅くにご機嫌になって帰ってきたときと同じにおいである。
 そのうち、子どもが大声で泣き始めた。煩かった。だが私は子どもは好きだ。主人の子どもはよく私のしっぽを引っ張ったが、代わりにちょこれいとなる甘い食べ物をこっそりくれるのだ。私より小さな者は守らねばならない。
 私は男に向かって跳躍した。

 それ以来、人間達の縄張りは私の方にずっと広がってきた。恩を仇で返すとはこのことである。

 ベンチには様々な人間が座る。彼らは一様によく喋る。
 昼間は母親同士がぴーてーえーだのおじゅけんだのと外国の言葉をぺちゃくちゃと声高に話し合う。私は耳を伏せてやり過ごす。煩い。私は昼の公園はあまり好きではない。
 だが夜になっても人はよく喋る。昼と違うのは、彼らがほとんど暗闇と喋っていることだ。私には見えないが、きっと彼らには何かが見えているのだろう。人間の鼻は愚鈍だが、目は良いようだ。

 ある夜、ベンチに女が座った。主人の奥方よりも大分若いが、子どもよりは年である。
 最初女は、ぽち、と言った。それから、さぶろー、じろー、さぶ、こーたろー、ちょび、などと立て続けに不可思議な言葉を紡ぐ。最後に、たま、と言う。
 隣の家の猫がそう呼ばれていた気がする。覚えのある音に耳がぴくりと動いた。だが私には関係ないことだろう。
「ねぇたま、私、来週旅行に行くの。沖縄に三泊四日で潜りに行くのよ。いいでしょう?」
 旅行、という言葉に私は耳をぴくりとさせた。その言葉が出ると、主人らは数日家を空ける。そして留守は私に任されるのだ。敵が侵入しないように、私はしっかりと目を光らせる。
 今は私が留守にしている。主人は城を守れているのだろうか。心配だ。
「彼と一緒よ。付き合い始めて5年くらいだし。もうそろそろだと思うのよね」
 女の声は弾んでいた。そして帰っていった。
 それ以来、女は度々ベンチに座って、たま、なる見えざる相手とお喋りをして行く。花のような服を着て、花のような笑い声を立てる。煩い。

 様子が変わってきたのはいつ頃だろうか。
「ねぇたま、昨日ね、今度の週末は会えないって言われたのよ。もう何回目だろう。覚えてないけど。理由を聞いても教えてくれないの。おかしいよね。……っていうか、馬鹿じゃないかしら。仕事って言えばいいじゃない。一言でいいのに。そうしたら、信じるのにね」
 女の服は相変わらず花のようにひらひらしていたが、伏せた私がちらりと横目で見る限り、やや布地が余り気味のようである。最初の時はそう感じなかった。やはり私の目はあまり良くないようだ。
「ねぇたま、あなた男の子なの、女の子なの? 大きな耳ね。ほら、御伽噺であるじゃない、おばあさんの耳はどうしてそんなに大きいの、それはね、お前の声をよっく聴くためだよ」
 たまには大きな耳があるらしい。私も耳は自慢である。耳をぱたぱたと動かした。
 主人はこの耳に白く細長いものを突っ込んで掃除をする。気持ちがいい。最後にしたのは随分前だ。
「私の耳も大きくならないかしら」
 この公園は水呑場がある。しかもいつもちょぼちょぼと出ている。だがこの真夏にはいかにも足りない。
 公園の向こうは大きなビルで、その下には大きな噴水がある。酷く暑い夜はしばしばそこに飛び込みたい気分になる。しかし私には出来ない。主人は私に、この公園で待つように言ったのだ。戻ってくるまでこの公園にいるようにと言ったのだから。

「ねぇたま」
  女は同じ服を買うようだ。見るたびに布地の余りが多くなっている。主人の奥方はいつも違う服を着ていた。人間も様々であるらしい。
  私はいつも一張羅の毛皮である。楽だ。
「もうすぐだと思うの」
  確かいつかもそう言っていた。ならばあの頃からさほど時間は経っていないのだろう。ただ、なぜか女の声は弾んだ様子をなくしていた。
「おかしいわね。一人から二人になって、また一人になるだけなのに、多分、違うの。どう違うのか分からない。だから恐いのかしらね」
  一人とはなんだろう。私には分からない。
「ねぇたま。あんたは何を待ってるの?」
  不意に女が私の目を覗き込んだ。私は驚いた。信じられない。だがどうやら認めなければならない。
  たま、というのは私のことなのだ!
  冗談ではない。私にはサンダーという立派な名前がある。主人がつけたのだ。だから私は主人に仕えているのだ。だから私は待っているのだ。
「たま」
  私はたまではない。だが、少し気になることがある。近頃は、サンダーという名前よりもたまという響きのほうをよく聞いている気がする。
「つらくて寂しいわ。悔しいし、悲しい。大声で怒鳴ってやりたいけど、泣いてしがみつきたい気もする。でもね、多分、もうダメなのね」
  女は手を伸ばし、私の首に鼻を押し付けた。自慢の毛皮が濡れた。
「ねぇたま。私といらっしゃいよ。一緒に諦めましょう。だってあなたも一人だもの」
  私は動かなかった。やがて女は立ち上がり、ぐすりと洟をすすった。ぽたりと艶のあるぴかぴかした靴に水滴が落ちた。女は歩き出した。
  一人とはなんだろう。私には分からない。だが。
  私は一人だ。そう思う。
  なぜなら、つらくて寂しいからだ。悔しいし、悲しい。大声で吠えたいが、鳴いて追いたい気もしていた。あの時。
  水滴の名前は知っている。涙と呼ぶのだ。あれは酷くしょっぱいが、私がそれを舐めると人間は笑う。主人の子どもも、奥方も、主人も、私が彼らのながすその水を舐めると笑う。
  私の耳が大きいのは、きっとそのこぼれる音を聴くためだ。

  私は立ち上がった。足の裏の地面はもう随分冷たくなった。その乾いた土を蹴って、飛ぶように、自慢の足で、私は小さくなった女の背中だけを見て、同じく一人であるその女を笑わせるために久しぶりのアスファルトを、全力で疾走した。









040:祈りは星に

2009-02-12 18:45:20 | 小説
◇原稿用紙五枚分程度の恋
◇オリジナル読みきり掌編
◇100題消化まで挑戦中

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変わっている言葉で100のお題



040:祈りは星に


 クリスマスよりずっと前から雪の降る土地柄で、お正月にもなれば辺りはすっかり雪景色になる。真夜中の初詣は、いつも神社に向かって雪を踏みしめて歩くことになった。
 今年、足元の音は、それでもまだじゃりじゃりとしていた。もっと気温が低くなれば、雪はスズメの鳴くような音を立てる。
 友人と待ち合わせた、神社から少し離れたコンビニにつくと、すでにみんな揃っていた。時間に遅れてはいないが、寒い中で立っていたせいか、盛大に文句を言われた。それでも彼女らの言葉尻は、どことなく浮かれている。年を越して飲んでいたのに違いない。こちらもお互い様だ。
 コンビニの暖かそうな明かりを名残惜しげに見やりつつ、神社に向かう。
口々に今年の抱負など語り合うが、きっと、お互いにその成就を確認し合うことはないだろう。
 あと三ヶ月もすれば、大学を卒業する。そしてそのすぐ後に、みな別々の土地で社会人になる。感慨深さはまだない。ただ惜しむように時間を共有するだけだ。
 箸が転げただけでも可笑しい歳は過ぎているものの、女が6人も集まればさすがに騒がしい。誰が誰の言葉に答えるということもなく、ひとかたまりのざわめきが移動する。
「お願い事、決めた?」
 傍らに寄ってきた美雪という子が、マフラーに鼻まで埋めながら聞いた。
「今年は振袖じゃないのね」
 質問をかわし、代わりにそう聞く。語尾に笑いが滲んだ。
 去年、彼女ははりきって着物を着て来たが、あまりの苦しさにその後の飲み会を欠席し、実家に帰っている。酒豪で通る彼女のことだ、今年はその教訓を生かし、一適たりとも逃すまいという心意気だろう。
「いいの。どうせ卒業式に着られるしね」
 嘯く言葉に笑った瞬間、コートのポケットに振動を感じた。
 笑ったままの口元が強張る。
 取り出したケータイを確認し、すぐ舌打ちした。いまいましいスパムメールだ。
「メール待ってるの?」
 マフラー越しのくぐもった声で美雪に聞かれ、ぎくりとする。だが、彼女は転ばないようにか、一心に足元を見ているだけだ。何気なく聞いただけらしい。
「いいえ」
 答えて、ケータイを戻した。彼女の真似をしてマフラーを口まで引き上げ、気付かれないようにため息をつく。
 一年くらい前から、気になり始めた人がいる。年末に、他ゼミ合同の飲み会で偶然隣合わせ、ようやくアドレスを交換した。それ以来、手のひらは無意識にケータイに触れる。
 彼には恋人がいるらしい、と、風の噂で聞いた。メールなど来ないだろう。そのことが、思いがけず悲しかった。つながりのないうちは形をとらぬ恋だったが、か細い糸が彼に伸びた今、驚くほどはっきりと認識されるのだ。彼への気持ちは、どうやら思うより強い。
 じりじりと進む人並みに耐え、ようやく賽銭箱が見えてきた。友人達は最前まで行くことをとうに諦め、小銭を取り出し次々に飛ばし始めた。敬虔さも神妙さもないが、これも毎年のことだ。投げてから、さて何を願おうと考えるのも同じ。イベントに参加はすれども、本気で神事を成し遂げようなどとは考えていない証拠だろう。
 手を合わせた瞬間、ポケットが振動した。息を吸い、そのまま拍手を打つ。
 真夜中にこうして目を閉じる時、繰り返す違う誰かのメールの着信の、ほの青いランプの点滅が瞼の裏に残る。
 身じろぎもしないまま、未来のことを思う。
 忘れたりはしなくても、せめてこんなにもあなたを思い出さない私であればいいのに。



022:目の奥の摩天楼

2008-10-16 22:03:46 | 小説


◇原稿用紙五枚分程度の恋
◇オリジナル読みきり掌編
◇100題消化まで挑戦中

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変わっている言葉で100のお題


022:目の奥の摩天楼


 鼻から西瓜、という比喩は、いったい誰が言い出したものだろうか。少なくとも、某ミュージシャンが鼻から牛乳が出る様子を歌にしようという天才的なひらめきを得るよりはずっと前には違いない。
 美雪が子どもの頃には、すでに使い古されたもののようであったが、それが延々語り告がれているところをみると、実は的を射ているのかもしれない、と最近思い始めている。
 そもそも鼻からスイカをひねり出すことなど、物理的に不可能だ。にも関わらず、尋常ではない痛みが想像できる。西瓜の身近さ、固すぎず柔らかすぎない感触、比較対象としての鼻の穴のいじらしい小ささなどが、リアリティの理由だろうか。
 孫を目に入れることだって同じくらい不可能なのに、西瓜と鼻は意外にいけちゃうんじゃないか、とわずかな可能性を思い描いてしまう気がする。大泉洋がハリウッドに進出する可能性くらい、なさそうでありそうではないか。

「美雪! 妊娠は病気じゃないのよ! 寝てばっかりいないで洗い物くらいしなさい!」
 その昔、生理は病気じゃないのよ!と言い放ったのと全く同じニュアンスで、母親が怒鳴る。
 理屈は分かるが、洗い物くらいしてもらわなければ、なんのためにわざわざ実家から母親に来てもらっているのかが分からない。臨月も臨月、予定日まで数日という時期なのだから、多少の労働は免除されて然るべきだと美雪は思っている。なにしろ、鼻から西瓜だ。崇めてもらってもいい。
 むぅ、と曖昧な唸り声を発していると、母親はこれみよがしにため息をひとつついてから、ざばざばと食器を洗い始めた。これでしばらく転がっていられる、とほくそえむ。
 家事はもともと嫌いだ。美雪は結婚しても仕事を続けていたし、そのスタンスを認めてくれる夫を選んだから、家事だってずっと分担だった。
なのに、産前休に入った途端、君はずっと家にいるのだから、ととんでもない理由をつけて、夫は風呂洗いも洗濯畳み係りもサボるようになったのだ。これはもう、裁判に訴えたら確実に勝てるだろう。子どもを産んですっきりしたら、慰謝料をがっぽり請求して離婚してやろうか。
 夫の慌てる顔を想像してニマニマしていると、何時の間にか洗い物を終えた母が、仰向けにソファに寝転がる美雪を見て首を振っていた。
「こんな子が母親よ。日本は終わりね」
 日本ときたか。絶句した美雪がなんとか反撃しようとする直前で、母はそそくさと財布を掴んで出かけていった。エプロンをしたまま買い物に行かないでと何度も言っているのに、今日もまたその恰好のままだ。いかにも近所の主婦然としていて、美雪はうんざりする。
 一人残された部屋は、窓から気持ちの良い風が入ってきて、絶好の昼寝環境だ。とろとろと目を閉じる。
 けれど、母親の口から出た母親と言う響きが、小さなノイズのように眠りを邪魔した。
「子どもなんて……」
欲しくなかったわよ、と言いかけて、腹の中の子どもはすでに耳が聴こえるのだと思い出しその先を飲み込む。けれど飲み込んだ言葉は胃に溜まり、ゆっくり子宮に落ちていきそうになる。


 美雪はもうすぐ27歳だ。大学を卒業してから、大型の書店に勤めた。デパートのテナントから駅前の本店に移り、司書の資格を生かして様々な企画を発案してきた。昔から本が好きだったし、それに、働くことも好きだった。家庭ではなく社会の中にいるほうが、ずっと自分らしいと思っている。
 妊娠が分かってからも、ぎりぎりまで仕事をするつもりだった。しかし、本屋の仕事というのはあれが意外に重労働だ。体力に自信があったとしても、まさか妊婦に本のみっしり詰まったダンボールを運ばせて黙って見ていられる人間は、そう多くはない。結果、美雪は周囲の人の良さに負けた。気を使われることに引け目を感じ、自分が職場の効率よく出来上がった流れを乱していることに耐えられなくなった。
 何よりも、一番こたえたのは、同性である女性社員たちからの冷ややかな視線だ。彼女らは備わっている母性を盾に取り、赤ん坊の安全を最優先しない美雪を責めた。気遣うように『赤ちゃんに良くないわ』と言われると、女としての義務を果たせと迫られている気になった。
 夏になると行われるミステリフェアの企画を最後に、逃げるように産休に入った。美雪の企画は通らなかった。当然だ。あれはほとんど投げ遣りな気持ちで発案したものだ。考えることを放り出して、ベビーベッドとおむつの山の間に逃げ込んだ。それを思い出すだけで、後悔がどんぶり三杯はいける。喉元まで詰まったその後悔を吐き出さないために、美雪は口を閉じる。
 そういう自分を、あまり好きにはなれないでいる。だから、周囲が、日に日に膨らんでいくお腹を前に浮かれあがっているのを見ても、なんだか少し、他人事だ。


「いい加減にしなさいよ、美雪! 航さんが帰ってくるまでそのままでいる気じゃないでしょうね? 妊娠にあぐらをかいてぐうたらしてると、嫌われてしまうわよ!」
 両腕に買い物袋を大量にぶらさげた母が、何時の間にか帰ってきていて、汗だくで怒鳴る。さすがにばつが悪くなり、うっそりと起き上がって台所に立った。
「妊婦はあぐらがかけないのよ、お母さん」
「知ってるわよ、馬鹿娘。お母さんはね、お母さんなのよ?」
「知ってるわよ。でもねぇ、航が私を嫌いにならないことも、私は知ってるのよぉ」
 歌うように言うと、母は天を仰ぐ。そうしてから、
「……まああれね、子は鎹と言うしねぇ……」
 むっとする。夫の航とは、両親とは全く違った意味ではあるが、相性は良いほうだと思っている。ちょっとぐうたらした程度で愛想を尽かすような男ではないし、万が一にもそんなことがあれば、そんなやつはこっちから蹴り出してやっていい。
 大体、子どもの存在は夫婦にとって、絆を強めたり弱めたりするような存在ではない。子どもが両親の未来を変えるのではない。子どもを産むと決めた時点で、両親がその未来を選んだだけだ。子どもは何も背負わない。それが許されるから、人は立ち上がれもしない弱い生物として生まれてくる。
「だって鼻から西瓜だもんね……」
 ため息をつく美雪を、母が笑った。
 決めたのだから仕方がない、と、美雪も笑った。


 赤ん坊は、予定日ジャストに出てくることに決めたらしい。おかげで夫は立会いをすることができるし、家族全員の心構えも出来ていた。
「はい、いきんでー、お母さん、もうすぐですよ!」
 強烈な痛みに、美雪は気を失うかと思った。何が鼻から西瓜だ。とんでもない。とてつもない。とにかく痛い。嘘つきめ。どいつもこいつも嘘つきだ。西瓜なんてもんじゃないじゃないか、これは。
 すぐ横で、航が必死の形相で、例のギャグとしか思えない呼吸法を繰り返している。こちらはそんな段階はもう通り越しているのだ。励まされるどころか、おかしな笑いがこみあげてくるからやめて欲しい。
 もう駄目だ。気が遠くなる。先生の声も、航の声も、どこかもやがかかったようだ。

「美雪。美雪」

 何度か名前を呼ばれて、ようやく周りが見えてきた。ぼんやりと、航の顔が見える。手を握られて、その時、急に、体が軽くなっていることに気付いた。
「お母さん」
 先生がそっと呼んだ。心臓を圧迫するような呼吸がまだ落ち着かないが、はい、と肯く。
 お母さん。
 その響きに、自然に返事をする。
「お母さん。私達の目が、どうしてはっきり見えるか知っていますか?」
 なんの話ですか、と笑おうとしたが、声も出ない。
「左右の眼球が、数センチ離れた位置で並んでいて、それが輻輳した動きでものに焦点を合わせるからですよ。ほら、内側に同じ角度で寄ったり、左右に同じだけ寄せられたり。赤ちゃんの目は、まだこの動きが上手くいかない」
 自分の手が震えている。そっと見た航は、なんだか泣き笑いの顔だ。
「生まれた赤ん坊が唯一焦点を合わせられるのは、その両目からだいたい21センチの距離だけなんです。まだぼやけた世界で、その距離にあるものだけがはっきりと見える」
 汗だくの看護師が歩み寄ってきた。両腕に何かを抱えている。
 それは泣き叫んでいる。
 それが、腕にそっと抱きかかえさせられた。
 それは大声で泣いていた。真っ赤な顔で、何が恐いのか、何を嫌うのか、全身で泣いている。
「21センチ。知っていますか、お母さん。それはね、赤ちゃんの顔から、抱っこするお母さんの顔までの距離なんです」
 赤ん坊の目が、不意に大きく見開かれ、美雪を見た。
 確かに見た、と感じた瞬間、その光景がぼやけ、涙が流れた。
 つられたように赤ん坊も再び大声を張り上げ始める。あまりに原始的で、こんなにも軽いくせに、爆風のように全てを吹き飛ばしていく。
 例えば、あったかもしれない小さな後悔や、はっきりしなかったわだかまりも、なんだかどうでも良くなるくらいだ。
 自分はもう大人だ。だから、21センチよりずっと遠い距離でも、見えるものがある。もしもこの子に自分が何かしてやれるとしたら、そのことを教えるくらいだ。
抱きしめる腕やあやす声や、記憶に残らないそれらのぬくもりで。







 娘を連れて出かけた公園で、見知らぬ妊婦に声をかけられた。
「可愛いお嬢さんですね」
「あら、ありがとうございます。そちらももうすぐのようですね」
「ええ……」
 ほんの少し眉を曇らせた彼女に、美雪はにっこり笑って言った。
「大丈夫ですよ。出産なんてね、鼻から西瓜を出すようなもんですから!」
 堂々と嘘をつく美雪を、我が子がふくふくと見上げている。


「目の奥の摩天楼


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参考文献
T. G. R. バウァー著,古崎愛子訳「乳幼児の知覚世界」サイエンス社






039:しじんはかたらない

2008-09-24 19:42:03 | 小説

◇原稿用紙五枚分程度の恋
◇オリジナル読みきり掌編
◇100題消化まで挑戦中

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変わっている言葉で100のお題


039:しじんはかたらない


 三十五年連れ添った妻は、生前、一度も夫である賢司に逆らったことはなかった。娘の美雪に散々、頑固だの前時代的だの、挙句の果てには横暴すぎると泣かれたこともある自分のような男と暮らすのは、それは大変だったかもしれないが、賢司は妻の不平を聞いたことが無い。
 不平などあるものか。賢司には、妻と娘、家族三人で食べるに苦労しないだけの生活をさせてやったという自負がある。そうやって定年まで真面目に勤め上げ、去年無事に退職した。
 仕事ばかりでろくにどこかへ連れて行ってやることもなかったから、これから夫婦で旅行にでも行こうかという矢先の、妻の死だった。
 賢司は酒も博打も女もやらない。仕事一筋の人生だ。妻はそんな自分をよく支えてくれた。
 時代遅れと言われようが、男は外で働き、女は家庭を守るというのが正しいありかただと賢司は信じている。昨今の若い女が何を勘違いして男のように働くのか、なぜ子どもを犠牲にしてまで残業を引き受け昇進を狙うのか、全く理解できない。苦々しい思いで見ているしかなかったが、それを思うにつけ、自分はよく出来た女房をもらったものだと誇らしくさえなったものだ。女は黙って夫の仕事を支えていれば良い。
 そんな賢司の思いを妻は最後まで全うし、定年を待っていたように倒れ、そしてまるで面倒はおかけいたしませんとでも言うように、ほんの一ヶ月ほどの入院できっぱりと逝ってしまった。
 昨日には四十九日も終え、そろそろ美雪も一時期ほどは頻繁に泊まりに来ることもない。
 婿が同居を持ちかけてきたが、賢司は断った。いずれ独力で生活できないようなことになったら、その時は施設にでも入るつもりだ。
 妻に恥じぬよう、自分も誰に面倒をかけることなく死ぬ。
 それだけが目標といっても良かった。

 なのに、なんということだろうか。
 賢司は今朝起きてから身支度を整え、電車に乗って一息つくまで全くなんの疑問も持たずにいたが、ふた駅も過ぎてからようやく、自分がどこに向かっているのか気づいて唖然としてしまった。
 妻の入院していた病院だった。すでにいない妻を見舞いに、自分は朝から電車に乗り込んだのだ。
 じわりと額に汗が滲む。何をしているのかと心の中で自分を叱咤したが、それも心なしか弱々しい。
 ボケたのだろうか。
 まさか。
 慌てて自宅の電話番号をそらんじてみる。0***……違う、それは娘の家だ。つるりと背中を汗が伝う。
 次の瞬間に、ようやく番号が思い浮かぶ。ほっと息をつき、住所と今日の日付も確認する。
 大丈夫だ。
 ふと見ると、斜め向かいから中年の女が気遣わしげな視線を投げかけてきていた。他人に心配されるほど動揺しているのだろうかと気づくと、今度は無性に腹が立ってくる。
 賢司は意識的にしゃっきりと背筋を伸ばし、次の駅でおもむろに立ち上がると堂々とホームに降り立った。
 まるで先からこの駅が目的地であったかのような顔で改札を出る。

 見知らぬ町だった。一度も下りたことの無い土地は、閑散とした構内に違わず、駅前も物寂しげだ。
 さっさと帰ろうと思いはしたが、なんとなく、緑の多そうなほうへ足を向けていた。
 まだとても若い頃、こんなふうな寂れた町に住んでいた。夫婦二人で、そう、美雪が生まれるまえだったかもしれない。
 しばらく行くと公園があった。噴水を囲むように広場とベンチがあり、賢司はそこで一休みすることにした。
 時計を見ると、まだ10時を回ったほどで、平日のせいか人気はほとんどない。静かで良い。
 そう思った矢先、そんな思いをわざわざ吹き飛ばしにきたような無粋な大声があった。どうやら、若い男女ふたりが、噴水の向こう側で喧嘩をしているようだ。
 近頃の若い奴等ときたら、他人の迷惑など考えようともせず好き勝手に騒ぐ。どうしようもないとはこのことだ。そもそも、男なら女に口答えなどさせずきっぱり物申すくらいの威厳がなくてはならぬ。言い争いなど、許すべきではないのだ。
 情けない、と憤然とした気持ちで水の向こうを透かして見ると、どうやら大分若い、賢司などにとっては赤子も同然と思える若者たちだ。
 女のほうは、驚くほどの金髪だった。日本人のくせに、不自然に過ぎる。
 外国かぶれのその喧嘩の相手は、色こそ黒いが、パーマなどあててしかもそれがこんもりと丸く顔をとりまいている。まるで頭に巨大なカリフラワーを載せたようだ。けったいなことこの上ない。
「だから、じゃあ何で黙ってたんだよ、そうだろ!」
「別に文句言ってるわけじゃないじゃん、しつこいよ!」
「お前が言い出したんだろうが!」
「だからただ言っただけだって、何回言わせんの!」
 話の前後が分からないせいか、一体何を言い争っているのか、賢司にはさっぱりわからなかった。おおかた、惚れた腫れたの話なのだろう。若い者はみんなそうだ。そうした話というのは密やかに打ち明けるべきものであって、決して人前でひっついてみせることで示すようなものではないというのに。
「もう、うるさい! 馬鹿!」
 女ほうが、形勢が不利なのか、とうとうそんなふうにかんしゃくを起こした。あれだな、キレやすい子ども達、というやつだ。大体、女というものは昔からヒステリックに騒ぐものと相場が決まっている。
 賢司がやれやれと思っているところに、今度は後から声がした。
「またやってるぜ、あの二人。面倒くせェなァ、待ち合わせとかなかったことにしようか?」
 太平楽な若い男の声が、そんなことを言っている。大騒ぎしている男女の仲間らしいが、無責任なことを堂々とよくも提案できるものだ。
「まあ待ちなさいよ、すぐ終わるわよ。あの二人はね、喧嘩が趣味なの」
 一緒にいた女が答えた。
「あながち間違ってねェかもな、それ」
「他に考えようがないでしょ。喧嘩が好きで好きでしょうがない、みたいな」
 ちらりと、少し離れたベンチに腰掛けるその新たなカップルに目を走らせて、賢司は思わず目をむいた。
 髪が紫だ。短いスカートに露出の大きい袖なしの服を着て、親が見たら卒倒するような格好だ。男のほうはまあまだ髪も黒っぽいが、剥き出しの腕には年季の入ったらしい刺青があり、こちらもどうせまともな生活を営んでいるようには見えなかった。
 向こうの喧嘩している二人と待ち合わせらしいが、類は朋を呼ぶというのはこういうことなのだなと、賢司は妙に感心すらしてしまう。
 そうこうするうちに、噴水の向こうはなにやら段々と声のトーンが変わってきた。後ろの二人もそれを感じ取ったようだ。
「そろそろ終わりかしらね」
「あいつらさ……恥ずかしいよな」
「いいじゃない。あれはあれで、幸せになる方法よ。喧嘩するから言いたいこと言えて、だから幸せになれるの。いいじゃない、それで」
 はっとした。女の言葉は、なぜか賢司の耳に鋭く響いた。
 ベンチから立ち上がった二人は、噴水の向こうに回って大声で喧嘩していたカップルの名前を呼んでいる。ひとしきり騒ぎがあり、それから、どこへ行こうかと相談が始まった。

 賢司には、それらのやりとりは聞こえていなかった。
 不意に思い出していた。三十五年前、妻に結婚を申し込んだ時のことだ。
『幸せになりましょうね』
 当然だが、彼女はまだとてもスリムで、しわもない若い娘だった。
 思い返せば、不思議な言葉だった。貞淑を絵に描いたような彼女なら、幸せにしてください、という定番の受け答えがあって良かったはずだ。
 幸せになりましょう。
 つまるところ――あの頃から、妻は、賢司をしっかりと支えて生きていく覚悟が出来ていたのだ。
 文句ひとつ言わない女だった。口答えも、嫌な顔もしたことがなかった。
 お前、と賢司は心の中で死んだ妻に問い掛けた。
 お前は幸せだったのだろうか。嫁に来る時に誓ったあの言葉を、自分は叶えてやれたのか。
 いい夫という自信があった。良い人生であると思っていた。
 妻よ。
 言いたいことも言わず、喧嘩もしない三十五年を、お前は幸せに過ごしただろうか。
 賢司の目に涙が溢れた。もう何もかも遅い。聞きそびれてしまった妻の言葉は、もうどんなことをしても聞くことが出来ない。そのことが悔しくて、口惜しくて、彼女を看取った瞬間にすらこれだけ泣いたりはしなかったのにと思うほど、涙が止まらなかった。
 賑やかな四人が目の前を通る。いい大人の男がこん小夜っともない真似をして、公園で、しかも人前で涙を流すなど笑われるではないか、と賢司は俯いてそれをやり過ごそうとした。
 数メートル通り過ぎた騒々しさのあと、一人だけ引き返してくる足音があった。顔をあげかけていた賢司は慌ててまた、足元の具合を見るふりをした。
 足音は目の前で止まる。流行りの派手なスニーカーのつま先を眺めていると、膝の上にそっと、テレクラの広告が入ったティッシュが差し出され、そしてあっという間に走り去っていってしまった。
 顔をあげて後姿を見る。けったいなパーマの黒髪が揺れていた。
 ガキに気を使われるなんて、と舌打ちをした。


 自宅に戻ると、娘の美雪が心配顔で飛び出してきた。
「お父さん! もう、どこに行ってたのよ!」
「散歩だ。なんだお前は、お前こそ来るって言ってたわけでもないのに、いちいち連絡なんぞするか」
 我ながら、普段よりも語気が弱い。美雪は敏感にそれを察知し、窺うような顔をしたが、何も言わずに茶をいれた。
 ちゃんと茶葉が開くのを待たないから味が薄い。妻ならばちゃんと賢司の好みをぴたりと出してくれたのだ。
 その人はもういない。
「母さんは……お前になんか言ったか」
「は?」
 三十を過ぎたくせにまだ子どもっぽさの残る娘は、大人とも思えないそんな反応で口をあけた。
「なんかって、なあに、お父さんのこと?」
「色々だ。オレが行った時はもう昏睡状態だったからな」
 美雪は自分の分の湯飲みを持って、賢司の向かいに座った。
「あの日はずっとそうだったのよ。朝から一度も目が覚めなかった。言わなかった?」
「いや。聞いた」
「やあね、お父さんったら、どうしたのよ。大丈夫?」
 賢司はむっとした。
「お前に心配してもらうほど落ちぶれておらん!」
 娘は笑った。
「あら、やっとらしくなった。良かった、それでこそお父さんよね」
 その言い方に頭に来て、少し黙る。不機嫌な顔をしているはずだが、美雪は気にする様子もない。そういうことに慣れているのだと思えば、うっかりため息も出た。
「ため息なんて似合わない真似しちゃって。お母さんも心配ね」
「だったら」
 賢司は言った。
「だったら死ぬことはなかった。最後まで看取ってこそ妻だろうが。なのに勝手に死んでしまいおって。まったく。オレをなんだと思ってるんだ」
 頭に血が上っていると分かっていたが、言葉を止めることは出来なかった。驚いたように目を見開いていた美雪が、いまにも心配そうに眉をひそめる気がした。
 だが、娘は笑った。大声で、子どもみたいに。
「やだ、お父さんたら! 拗ねてんのね!」
「なんだ、それは!」
「そうよねぇ、昔っからさ、頑固で自分勝手で、偉そうで、あたしなんかずうっと小さい頃から、お父さんみたいな人とは結婚しない!って思ってたもの」
「なに!」
「お母さんが可哀想で、若い頃は結構美人だったのに、なぁんでお父さんなんか選んじゃったのかしらって」
「お前、お前は娘のくせに!」
「そうよぉ、娘だもん、だからさ、聞いたの。お母さんそれで幸せなの、って。あんな頑固ジジィ、さっさと別れてあたしがお母さんひとりくらい面倒見るわよって」
 賢司は少々、ショックだった。散々に言われてはいたが、そんなに具体的に娘に提案させるほどだったのか、と改めて思い知ったのだ。
 同時に、公園での問いにいきなり答えを突きつけられたような気がしてうろたえもした。
 今更、本当は、聞きたくもない。
 だが、美雪は笑っている。
「そしたらさ、お母さん、笑うの。馬鹿ね、って。『お父さんが毎日真っ直ぐ家に帰ってくるのは真面目だからとかじゃないのよ、あれはね、お母さんのことが好きでしょうがないのよ、だからなの。羨ましいでしょ?』だって。それってほんの何年か前よ、もうさ、五十も大分過ぎてそんなこと言うのよ、おっかしいわよね」
 笑いながら、美雪の頬には涙が伝った。
 気が強いくせに泣き虫で、自分からは慰めを求めない娘の涙を拭いてやるのは、いつも妻の役目だった。
「幸せで、いい人生だったわ。お母さんの言う通りよ、羨ましいくらい、幸せなの、私たち。お母さんも。あたしもね」
 賢司は身動きした時にガサリとポケットで鳴った音に思い出し、あの若者にもらったティッシュを美雪に差し出した。
 娘は、やだテレクラ、と笑った。
 見ろ。オレだって娘を泣き止ませるくらい、なんでもないんだ。
 賢司はひっそりと言ちた。
 いつもそうだった。思ったことをめったに口には出さないほうだと、自覚はある。それでも妻は分かってくれた。そう思っている。
 独りよがりだろうか。いや――そうではない。重ねた三十五年は、それだけの価値があった。
 分かっていたはずだ。自分の夫が、なにより家族を大事に思ってきたことを。そうでなければ、まだまだ頼りない一人娘を賢司に預けて、先立ってしまうはずがない。
「美雪」
「なあに?」
「母さんが美人なのは若いときだけじゃない」
 今度こそ目をまんまるにする娘の前で、賢司はゆっくりと茶を飲んだ。薄い味も、これはこれで悪くないなと思った。

 きっと慣れていく。このお茶も、一人の暮らしも、娘の作る洋風のおかずも当たり前になっていく。そしてやがて年をとり、少しずつすべてを忘れていく。今朝方は思い出せた住所も電話番号も、そらでは思い出せない日がくる。
 ただそれでも、今日までと同じ、妻のことを思い出さない日はいつまでも賢司を訪れないのだろう。


「死人はかたらない」


045:ずっと、そしてずっと。

2008-09-07 11:56:43 | 小説


◇原稿用紙五枚分程度の恋
◇オリジナル読みきり掌編
◇100題消化まで挑戦中

<4>
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変わっている言葉で100のお題



045:ずっと、そしてずっと。


 閉め立てられた戸の向こうから、乾いた琴の音が聞こえてくる。
 駕籠を降りた小夜に、女中のお絹が荷物を差し出した。
「それじゃあお嬢さん、またお終いの頃にお迎えに上がりますからね。つげ春様に よろしく教わってくださいよ」
 大店の娘に対する口調とは思えないが、お絹は赤ん坊だった小夜を母の代わりに育ててくれた女で、だから小夜のさばさばした性格はこの乳母の気風の良いところに似たのだ。
 はいはいと返事をして、するりと障子の内に入った。
 そのまま耳をすましていると、お絹が駕籠かきの男たちと言葉を交わし、各々立ち去っていく気配がする。そうしてからやっと、奥に声をかけた。
「お師匠さま」
 琴を爪弾く音がぴたりと止む。奥の六畳間から、師匠であるつげ春が出てきた。
 彼女の着物は、派手ではないがとても小夜には着こなせない大きな椿の染めだ。<rb>高直</rb><rp>(</rp>こうじき<rp>)</rp>なのが一目で分かる。帯の位置や、襟の抜き方が粋だから、思わず見惚れてしまうほど似合っている。
「おや、おいでだね」
 手の込んだ彫りが入ったきせるから、ふうと煙が上がる。
「あら、お啓さん、煙草はおやめになったのでは?」
 小夜の指摘をはぐらかし、薄く笑う口元が、もうすぐ30の大年増とは思えないほどあでやかだ。
 小ぢんまりとはしているが、女の一人住まいにしては立派な家は、そんな彼女に骨抜きにされた夫が与えたものである。お啓が本名で、つげ春は芸名だ。彼女は岡っ引きの夫を助けるために、琴を教えている。
 手習いに来ていたはずの小夜だが、何時の間にか稽古そっちのけでおしゃべりにばかり興じるようになった。一回りほども年は違うが、彼女と話すのは楽しかった。何時の間にか本名を呼ぶようになったのも、親しみを増した証拠だろう。
 そして、だからこそ、彼女には秘密を打ち明ける気になったのだ。
「来て早々で悪いのですけれど、もうゆきます」
 気ぜわしげに言うと、彼女はくすりと笑う。そわそわしている小夜が、おかしいのだ。
「なんですか」
「いいや、なんでもないさ。気をつけておいでよ。お小夜ちゃん、あんたは騒ぎを起こすのが得意だからねぇ」
 失礼な物言いに舌を出しておいて、小夜はお啓の家を飛び出した。


 小夜の家は、大きな<rb>薬種問屋</rb><rp>(</rp>やくしゅどんや<rp>)</rp>だ。堅実な二代目と評判の父と、上には兄がひとりあるが、母親は小夜を産んだ後、肥立ちが悪くそのまま死んでしまった。
 <rb>大店</rb><rp>(</rp>おおだな<rp>)</rp>だけに後添いをという声もあったが、父はいまだに独り者だ。その分母を大事にしていたのだろうとは思うが、妻を亡くした父の関心を一手に引き受けるはめになった小夜としては、複雑なところだ。なにしろ箱入りとはこのことと言うほど、父の過保護はひどい。
 十を越えた頃から、一人で出かけることさえ出来なくなった。本所深川でも最も大きなお<rb>店</rb><rp>(</rp>たな<rp>)</rp>のひとつに数えられるだけに、かどわかしにあってはならんという愛情ではあろう。
 それでも、いつでも女中がひとりふたりとついているせいで、友達とも遊べなかった。来るなといったところで、小夜の言葉よりも大旦那様の言いつけ大事なのは当たり前だ。
 年頃になってからは、その悩みがますます小夜を苦しめる。
 そうしてようやく出会ったのが、お啓だった。
 彼女にならと打ち明けた秘密に、手習いの間は女中が他の用足しにここを離れるのだから、その間は自由にしておいでと言ってくれた。
 もう一年になる。小夜にはその時間が必要だった。

<rb>春市</rb><rp>(</rp>はるいち<rp>)</rp>!」
 走りこんだいなり神社の境内で、待ち人顔だった男は、呼んだ声にぱっと笑う。春市という、小夜よりひとつ上の、<rb>廻船問屋</rb><rp>(</rp>かいせんどんや<rp>)</rp>で働いている男だ。
 彼は元々、小夜の店のすぐ近くで<rb>一膳飯屋</rb><rp>(</rp>いちぜんめしや<rp>)</rp>を営んでいた夫婦の息子だった。小さい頃はよく遊んだ。隠れ鬼もやっとうごっこも小夜のほうが強かったものだ。駆け比べだけは、彼のほうが速かった。
 その彼が十を数えたころに、今のお店である笹屋に奉公に出たため、すぐ後に出歩けなくなった小夜とは会うことさえなかった。
 それがひょんな偶然で、この神社で再会した。
 寄り道にはいい顔をしない女中を説き伏せ、その頃に風邪をひいていた兄のためにお参りをしようとしたのだ。そこで先に手を合わせていたのが春市だった。

 彼は今、笹屋の船で、海から荷を運んでいる。お堀を進む船は、威勢のいい<rb>阿二</rb><rp>(</rp>あに<rp>)</rp>さん達にとっては手足ほどにも他愛のない乗り物であるようだが、春市はまだ店の下働きから船に移ったばかりで、足元の定まらない仕事場に苦労しているらしい。
 この神社は、すぐそこを江戸を縦横無尽に走るお堀が通っている。春市は時々、船を休める間にこうしてこの神社に通う。今さっきまで手を合わせていたらしいが、何のためのお参りなのか、小夜は聞いたことがない。願い事は口に出すとダメなのだと言って笑うのだ。
 それは牛の刻参りの話ではないのかと思うが、言いたくないのだろうとそのままにしてある。

「よう、お嬢さん」
「からかって呼ぶならよしてちょうだい。ねぇそれより、どうなったの?」
 小夜はせかす。
「そうそう、まあ聞けよ」
「聞いてるじゃない」
「長助が本当の下手人じゃねェってのは、どうも堀川様には分かってらしたようなんだ。残された足跡も、おくめを殺めるのに使ったらしい鉄瓶も、長助のものだったのにさ」
 春市は勢いよく、最近ちまたで話題になっている人殺しの話を始めた。なんと彼は最初の殺しをいのいちばんに見つけたのだ。
 その時に、周囲の血の流れた様子から、殺されたのがここではないのだと気づき、今にも消えそうな点々とした血の痕を、野次馬たちから踏むな踏むなと守ったのだそうだ。そのおかげで、廻り同心の堀川様に目をかけられ、ちょくちょく話すようになったらしい。
 先週会った時は、どうも捕らえられた男が本当に人を殺したとは思えないというようなことを言っていたが、やはり下手人は別にいたのか。
「じゃあ誰がやった? そんなの分かるわけねェ。そんで堀川様も、政一郎の親分も困ってらした。オレも困った。そんで、長助の鉄瓶はどうやって可哀想なおくめの頭にたどりついたんでしょうねって言ってみた」
 小夜は、本当は人殺しの話などどうでもいいのだ。
 こうして、春市と並んで腰掛け、色んな話をするのがいい。顔を見合わせると、覗き込むようにして笑う顔を見るのが好きなのだ。何日も置いてからじゃないと会えはしないが、だからこそ、小夜はこの時間がとても大事だった。
 ちなみに、政一郎親分というのは、堀川様に手札を受けている岡っ引きで、お啓の旦那だ。なので、彼女の口から、最近うちのが可愛がっている春市って子が、という話が出たときには飛び上がって驚いた。
 ねぇ、あの子は荷運びよりおつむを使うのが合ってるのじゃないかえ?
 お啓が言うことは、小夜にはよく分からない。春市はいつも楽しそうだし、船に乗ることも性に合っていると言う。
彼がどんなところで働いていても、そうして笑っていられるならばなんだっていいと思う。
「で、一件落着ってわけよ」
「堀川様は十手持ちにしては、のんびりしたお方と聞いてたけど」
「とんでもねェ。あの方は切れ者さ」
 近くの木の上で、からすがカァと鳴いた。
 二人はふっと黙る。
 お堀の水がさらさら流れる音がして、遠くから水売りの声が聞こえてくる。
「じゃあ……もうゆくわ」
「おう」
 小夜は立ち上がったけれど、どうしても足が動かない。隣で春市も腰を上げる。
 小さい頃は気にしたこともなかったが、彼は背の高い若者になっていて、もう頭ひとつよりずっと高いところに顔がある。俯いていては見えない位置だ。
「春市」
「なんだい」
「あたし、あんたが好きよ」
 風がささやいた程度だったけれど、彼には聞こえたらしい。
 自分の真っ白い足袋のつま先と、土と水にまみれた春市の足が並んでいるのを見ていたけれど、耳は全部、開いていた。
 答えはなかったが、指先が触れた。小夜はその慰めるような手を強く握る。
「ねぇ。あんたのお願い事、なんだったの?」
「うん」
「うんじゃあ、分からない」
「ここの稲荷様は慈悲深いって評判は、本当だった。オレの願いは叶ったんだ」



 小夜は息を弾ませながら、お啓の家に滑り込んだ。
「おや。今日は帰ってこないかと思ったよ」
 優しく声がかかる。お啓は寂しげに微笑んでいる。
 小夜も、必死で笑った。
「ええ。そうね。でも帰るわ、私」
 手を握り締める。
 そうして、外から呼ばう声に答えて、お絹がくどくどとお啓に礼を述べている間に、用意されていた駕籠に乗り込んだ。
「ヨイッ、セィ」

 小夜は運ばれていく。
 家に帰る。
 そうして、明日、お嫁に行く。

 本所深川一番のお店の娘は、ぜひにと乞われて、畏れ多くもお武家様のおうちに嫁ぐのだ。お啓と琴の稽古をすることも、二度とない。それどころか、このあたりには帰ってくることもなく、ずっとお屋敷で暮らすことになる。
 父は喜んでいる。だから小夜は、一度だけだけれど、絶対に添い遂げることが出来ない身分の人と駆け落ちしようとひっそり考えたことを、反省している。
 今まで育ててくれた父と、家とに、ようやく報いることが出来る。

 春市の願いは叶ったのだ。
 小夜が幸せでありますようにと、祈ったそうだ。毎日手を合わせたそうだ。
 だから、今は泣いても、家に帰るまでに涙も止まるだろう。そうして、この額に触れた唇の、小さな温もりのために、死ぬまでずっと幸せでいられるとそう信じている。
 生きるこの先に彼がいなくても、祈る幸せはこの涙のように指先にまでしみこんでいる。



「ずっと、そしてずっと。」

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商人の家から直接武家に嫁ぐのってだめかも。
一度養子に入るのかも。




048:たどり着けば、あなた

2008-08-25 19:12:52 | 小説


◇原稿用紙五枚分程度の恋
◇オリジナル読みきり掌編
◇100題消化まで挑戦中

<3>
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変わっている言葉で100のお題


048:たどり着けば、あなた



 千寿子は一度だけ、家出をしたことがある。
 五十歳を間近に控えたある朝、娘にも夫にも何も言わず、ふたりをいつも通りに送り出した後にボストンバッグひとつ持って家出をした。
 7時45分。家に戻ったのは、その日の夕方5時半だった。10時間にも満たないその家出は、家族の誰にも気づかれていない。
 何が原因と言うわけでもなかった。
千寿子はごく普通のサラリーマンの家庭に生まれ、目立たぬ幼少時代を過ごし、平凡な青春を経て結婚した。夫の賢司は公務員で、両親は本当に良い結婚をしたと喜んでいたものだ。
 自分でも、ごく普通の幸せな人生であると思っている。
 ただふと、家出がしなくなった。
 理由はと問われれば、前日のちょっとした出来事くらいしか思い当たらない。自分のことであるのに、まあ曖昧なことだ。

 そもそも、千寿子は自分の名前が嫌いだった。寿なんて能天気におめでたい感じがする。
 幼い頃から好きではなかったが、本当は鶴という字を使い、千鶴子となるはずだったと両親に聞いてからますます嫌いになった。当時は、鶴という字は名前に使えなかったのだそうだ。
 あと10年、いや、5年でも遅く生まれていればどうだっただろうかと、若い頃からそんな想像をするのが何時の間にか癖になっていた。もっと華やかな名前で、もっと変わった人生を歩んでいたのではないかと、そう思えてならない時期もあった。
 年を経て、もうすぐ五十の声を聞く頃になれば、穏やかな幸せと言うものの大切さが身にしみていた。
 だが、あの朝は違った。
 ささやかながら庭のある家の玄関で、夫と、それからもうすぐ結婚する娘を仕事に送り出した後、ふと表札を見上げた。出かけたふたりの間に挟まれるように、千寿子の名前がある。
 不意に、それがたまらなく嫌になった。ぞっとしたと言っても良い。
  自分はこのまま、夫と娘に挟まれて平凡な人生を終えるのだろうか。
立ち尽くしてしまうほど急な焦りを感じた翌朝、気づけば荷物を手に家を出ていた。

 どこへ行く当てがある訳でもなく、わずかばかりの衣類と手持ちの現金だけが入ったバックを持って、電車に乗った。適当に行って乗り換え、また別の路線に移る。
 ぼんやりと、夫のことを考えていた。
 賢司は亭主関白を絵に描いたような男だ。縦のものを横にもしないと言うがまさに文字通りの人で、まず家事には一切手を出さない。身の回りの世話は女房がして当然だと思っている。
 しかし、千寿子はそれが苦にならない。父親もそうだった。女は男に仕えるようにと、そう躾られた最後の世代だ。
 あと5年。
 千寿子はやはりそう思う。
 娘はそんな両親の姿を見ては育ったが、自分もそのようになろうなどとは思わない子だ。男女同権が急進的に広まっていった時期に思春期を迎えたせいか、むしろ自分の両親の関係を旧弊的だと非難する。
 大人になってもそうだ。なにくれとなく世話をやく千寿子にも文句を言い、それを当然のように思って生活している父親を非難する。それはもう、けちょんけちょんだ。
 賢司はそうした娘の態度を受け流しているが、あれは鷹揚なのではなく、何を言っているのか理解できないのだと千寿子は思う。当たり前の概念に何を言われようが、おかしいのは向こうだということになってしまう。
 けれど千寿子は、娘の言う平等について時々考える。そしてまた、自分自身が娘の頃に思い描いた、平凡ではない生活というものをちょっとだけ垣間見てしまったりするのだ。
 表札に刻まれた自分の名前に抱いた嫌悪は、そんな小さな空想が積もり積もった結果なのかもしれない。
 賢司のように無闇に人生を信じることも出来ず、娘のように好きな仕事で身を立てることも出来ない。中途半端な自分。
 それがつまり、平凡ということだ。

 車窓にも飽きて電車を降りた。その駅に見覚えがあることに気づき、千寿子は乗換えをやめて改札口を出た。
「あ」
 思い出が驚きの声となって喉を突く。実家の最寄り駅だった。ただしもう両親はとっくに亡くなっていて、生家も人手に渡っている。
 無意識に親を頼ってしまったのだろうかと少し情けない気持ちになったが、なんとなく歩いているうちに、病院の名前がついた看板を見つけ気分が高揚した。
 娘を産んだ総合病院だ。
 考えるより先に、そちらに足を向けていた。さすがにリフォームらしき跡は見えたが、全体のつくりは当時と変わっていない。
 後ろめたい思いをそ知らぬ顔で隠しつつ、産科へ向かった。
 新生児室の位置も変わらない。

 娘が生まれたのは昼過ぎのことで、当然ながら賢司は仕事中だった。当時は子どもが生まれるからと言って休むことなどなかったし、出産に立ち会うなんてことは論外といえた。
 それは冬だった。
 夕方にもなればすっかり暗くなり、夫が駆けつけて来た時、千寿子はうつらうつらしていた目を開けてその薄暗さに少し驚いたものだ。
 最初は、なぜ目が覚めたのか分からなかった。意識が浮上するにつれ、自分の右手を温かな手が握っていると気づいた。そうしてから、傍らに夫が付き添っていることに気づいたのだ。
「目が覚めたか」
 いつもと変わらない、ぶっきらぼうな賢司の声に、それでも安心した。
 ふと窓の外を見ると、ちらちらと雪が降っていて、まあ、と千寿子は言った。
「雪ですよ。初雪かしら。こんな時期に、早いものね」
 答えが無いのはいつものことだったが、再び目を転じて夫の顔を見た時、とても驚いたことを覚えている。
 そっと声をかけた。
「赤ちゃん、見ました?」
「ああ。見た」
「名前、考えないといけませんね」
「そうだな」
「あなた、今日からお父さんですね」
 うむと唸った賢司は、千寿子の手をまだ握っていた。そして、凄いな、と言った。
 お前は凄い、でかした、たいした女だ。

 それを思い出した後、千寿子は真っ直ぐ自宅へ戻った。そして何事も無かったかのように、夫と娘を迎えた。

 誰も知らない家出から何年かして、相変わらず男尊女卑の発言を繰り返す賢司に娘が久しぶりに怒っていたことがある。
「お母さん、なんであんなお父さんと結婚しちゃったの? うちの人みたいに、もっと理解のある人にすれば良かったのに!」
「そうねぇ」
「もう別れちゃえば? お母さんの一人くらい、余裕で面倒みれるわよ。あんなクソ真面目でクソ面白くもない男!」
「やぁねぇ、クソなんて、下品だこと」
 千寿子もまた、慣れたものだ。否定や反論より、受け流すのが一番。娘は文句を言いたいだけ。
 そんなことも分かっているというように、
「笑いも泣きもしない人と暮らして、幸せなの?」
と聞かれた。
 幸せ、という言葉に、内緒で家を出たあの朝のことを少しだけ思い出した。
 千寿子は笑った。
「ねぇ、お母さん、お父さんが泣いたところ、一度だけ見たことあるわよ」
「え、嘘、いつ?」
「あんたが生まれた日よ、美雪」
 娘は目をまんまるにして、それから力が抜けたように笑った。
 私は凄いのだ、と思った。
 凄くてたいした女なのだ。
 夫が言うのだから、間違いないと、そう信じている。


 その日は朝から明るい場所にいた。どうやら、もうそこから戻ることは出来無そうだと思い、ちょっとだけ夫のことが心配になった。
 その人は、今、右手を握っている。
 かつて一度だけ、そんなふうにしっかりと握ってもらった日に生まれた子が、左手を一生懸命にさすっている。

 あ、と思い出した。
 あの日、あの家出の日、こっそりと入り込んだ産科は外科の病棟の奥にあり、帰りもそこを通ったのだ。そしてその病室から二人の男の子が出てくるのに出くわした。
 どちらも、黒髪だが褐色の肌をした男の子だった。おそらく5歳くらいで、ふたりはしっかりと手をつないでいたが、片方の子の空いた手はやがてぐいぐいと頬を擦りだし、涙を拭いている様子だ。
「なんで何も声かけてやらねェんだよ」
「……聞こえないもん、どうせ、寝てばっかりで、聞こえないもん!」
「そんなことねェって、かんごふさんが言ってただろ。な。明日はおはようって言ってやれよな。な?」
 傍目から見ても、流暢な日本語が似合う外見の二人ではなく、彼らがどうしてこの国にいるのか、母親らしき人がなぜ入院しているのか、千寿子には分からなかったが、決してそれは楽しい事情ではないように思えた。
 必死な慰めが通じたのか、泣いていた子の黒い髪が、こくん、と一回揺れた。そして二人はしっかりと手を握ったまま、連れ立って去っていった。
 千寿子が顔を上げると、同じように立ち止まった看護師が、沈痛そうな面持ちで立っていた。目が合って、お互いに複雑な表情を交し合った。
「どのくらい……」
 入院しているのか、と聞いたつもりだったが、看護師は静かに、
「あと半月……」
と言い、それからすぐに、頭を下げて行ってしまった。

 あれはもう、12年も前だ。
 今ならあの子達に教えてあげられるのに、と残念に思う。
 夫が必死に千寿子の名前を呼んでいる。それが聞こえるのだと、教えてやれたらよかったのに。
 母さん、と呼ぶようになって久しいのに、なんだかくすぐったい。
 その呼び方をしているのは、涙声の娘だ。気が強いくせに泣き虫で、その度に頭を撫でては慰めてやったものだ。
 賢司の声がする。
 いいから、と千寿子は思う。
 いいから美雪を慰めてあげてくださいよ、あの子の頭を撫でてあげて。もう、私にはしてあげられないから。
 千寿子、千寿子!
 繰り返し呼ばれるうちに、それはとても素敵な名前に思えてきた。おめでたくて、良い名前だ。
 それらの全てを、もう誰にも伝えることは出来ない。
 けれど千寿子はそれを残念がったりはしなかった。
 いつか誰もが迎えるこの瞬間に、人は気づく。生きてきた軌跡が、いずれ、この愛しい気持ちを家族に伝えることになるだろう。
 そんなふうに、私は私の命を生きたのだ、と。

 いつか聞いて下さい。
 あなた。
 あなた。
 ――いい人生でした。



「たどり着けば、あなた」


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008:長き季節は壊れた

2008-08-16 21:01:57 | 小説

◇原稿用紙五枚分程度の恋
◇オリジナル読みきり掌編
◇100題消化まで挑戦中

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変わっている言葉で100のお題


008:長き季節は壊れた


 久しぶりに遠出をした。帰りの電車は空いていて、隣の恵吾は両足を投げ出している。5年も付き合っているから、美知には彼が何を考えているか大体分かった。多分、靴の中に入った海の砂を取りたいのだろう。
 夕方を過ぎ、斜めに差し込む光が、もうすっかり消えかけている。部屋に着く頃には、暗くなっているに違いない。
 恵吾は半ば目を閉じている。少しだるそうだ。持っていったお弁当はとっくに消化されているだろうし、そうした荷物も彼が持ってくれたから、きっと疲れている。
「ケイちゃん。もうすぐ駅だよ」
 ああ、と彼は肯き、口元だけで笑った。
「疲れたんでしょう?」
「ちょっとね」
「海なんて、おととし行ったきりだもんね」
 しまった、と瞬間的に思う。恵吾は目を逸らした。
 いつからこうなったのだろう。気の合う友人同士から、何時の間にか恋人という関係になり、ずっと穏やかにやってきたはずだった。
 恵吾は口数が少なく、けれど決して無愛想ではない。美知自身も我侭なほうではないし、二人の間には諍いめいたことはほとんど起こらなかった。
 去年あたりからだ。何かが変わった。空気の匂いだ。鼻腔で感じるのではない。少し固くなったその匂いを、美知は身体で感じる。
 そして変わってしまった理由も、なんとなく、知っている。恵吾のケータイは、このところずっとロックがかかっている。

 駅を出ても、真っ直ぐ帰る気になれなかった。
「コンビニ」
「おう」
 通り沿いを指差し、いつも行くセブンに向かった。店から出てきた人を避けてから入る。恵吾がドアを支えてくれて、その腕の下をくぐった。
海と、かすかな恵吾の匂いがする。その一瞬に、なぜか息が詰まった。自分にとって、この人はいつも、好きな人だ。いつだってそうだ。
「今すれ違ったヤツ、ちょっと笑ってなかったか?」
「え?」
「入り口で」
「あー、見なかったかも。変な人っぽかった?」
「そういう感じじゃなくってさ。なんか……これからいいことあるんだろうなって感じの」
 背の高い恵吾を見上げると、彼はニヤリと笑った。つられて笑った。

 きっと、恋人のところに行くところだったりしたのだろう。元々が遊び仲間だった自分たちも、よくからかわれた。みんなで遊んでいるところから、じゃあ俺らは、などと言いながら二人で抜ける時の、気恥ずかしさと嬉しさの入り混じったあの感覚が、なんだか酷く懐かしい。
 自分たちがどれだけのものを共有してきたか、数え上げることすら出来ない。それらは誰にも奪われないし、消えることもない。
 帰る道々、手をつなぐ。恵吾の手の位置に合わせて曲げられた自分の肘の角度は、他の誰とも重ならない。

 けれど、それはそれだけのことだった。

「じゃあ」
「じゃあ」
 部屋の前で、美知はわずかに俯く。笑うのもわざとらしいし、かといって、他にどんな顔をすればいいのかが分からない。
今日が最後だというなら、なおさらだ。
 手が離れたので、もう二人は恋人ではなくなった。
「やっぱり別れる理由は教えてくれないの」
「知ってるんだろう?」
 美知は肯く。その通りだ。美知は恵吾のことを大体はよく知っている。全部を知ることは出来なかった。少なくとも、そうしようと思っていたことも、今はもう伝えることもない。

 空っぽのお弁当箱が入ったバッグを受け取って、部屋へと入った。恵吾の荷物がなくなったせいで、隙間が目立つ。がらんとしている。
 テーブルの隅っこに、一緒に買った林檎のキーホルダが乗っていた。留め金が外れて使えない状態になっている。けれど器用な恵吾ならすぐに直せる程度だろう。
 傍により、手にとって、それが直らなかったのでも直せなかったのでもなく、直さなかったのだと気付いたので、美知は少し、泣いた。


「長き季節は壊れた」
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041:あかないものは

2008-08-07 22:54:37 | 小説

◇原稿用紙五枚分程度の恋
◇オリジナル読みきり掌編
◇100題消化まで挑戦中

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変わっている言葉で100のお題

041:あかないものは


 今から行くよの電話をすると、飲み物を買ってきて欲しいと頼まれた。彼女が必要な物を何か、ひとつふたつ忘れるのはいつものことで、だから立ち寄るコンビニでもすっかり店員と顔なじみであるほどだ。個人的な話などはしないが、妙にこなれた雰囲気にみえることだろう。
 頼まれた紅茶のペットボトルをレジに出すと、店員はこちらが何も言わないうちに背後の煙草に手を伸ばす。そうしながら目顔で尋ねてくる。僕は肯く。
 ひと言も口を利くことなくコンビニを出て、車に乗り込んだ。彼女の家まで、ここから1分もかからない。
 ゲスト用の駐車場に車を止めて、エンジンを切った。街灯の明かりを透かして、彼女の部屋の窓が見える。買ったばかりの煙草を開けて、ゆっくりと一本に火をつけた。
 想像する。彼女は今、キッチンに立っている。テレビドラマの音に耳だけをやり、二年経ってもあまり上達しない手つきで、頼りなく野菜を刻んでいる。機嫌が良ければ、オリジナルの変な鼻歌を歌っている。ディティールは違っても、きっと、そんなところだ。
 半分ほど吸ったタバコをもみ消し、部屋へと向かう。
 チャイムを押したが、彼女は慌てない。のんびりとコンロの火などを消し、インターフォンを覗き、僕の姿を確認し、それからおもむろに玄関を開ける。
「おかえり」
「うん」
「あ」
「うん?」
「また煙草吸ったね?」
「ごめん」
 反省なんかしてないくせに、と、きりりと視線を尖らせた彼女は、不機嫌な顔のままコンビニの袋を奪って戻っていった。
 悪いとは思っている。煙草が身体に悪いことも知っている。それでも僕は、ジャケットにしみついた煙の匂いを見抜かれるためだけに、一本火をつける。
 目の前に彼女がいない時に僕が彼女について考えるように、彼女は彼女がいない時間の僕の匂いを嗅ぎ取る。その時に僕は、顔も名前も知らなかった頃について思い出ししみじみため息をつき、彼女の部屋のドアを閉め鍵を閉め同じ内側にいられる幸福をかみしめる。
 コンビニの店員は、僕がヘヴィスモーカだと思っているだろう。すれ違うだけでは分からないことがたくさんある。知っているようで間違っていること、知っているつもりだったのに気付かないこと、埋めていくには意外に時間が必要だ。
 僕と彼女の間にはまだまだ隙間があり、けれど車の中には、一本ずつしか吸わないマルボロの箱がいくつも積み重なっていく、時間のように習慣のように、思いのように。


「空かないものは」
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