二限目の体育の授業のときに、松本が倒れた。
私はそのとき、「今日の松本、隈凄いなー」とか「なんか体がぐらぐらしてるなー」とか思いながら彼を眺めていたのだけど、それがいきなりふらりと傾いたものだから、一瞬何が起こったのかわからなかった。
グラウンドに砂まみれになって横たわる松本をぼーっと見ていたら誰かが「せんせーい!松本君が倒れましたー!」なんて叫んでいて、ああ、松本倒れたんだ、なんで松本倒れたんだろう、松本大丈夫かな、なんて混乱した頭で考えていて、そしたらいつの間にか先生が二人組みで担架に松本を乗っけて運んでいって、そこで私はやっと状況を理解した。
松本が倒れた。
その後の授業を、私がどんな風に受けたのかは覚えていない。
それでも終業のチャイムと同時に、ぺっしゃんこの鞄をひっつかんで教室を飛び出したことだけは覚えている。
「松本!」
病室の戸を勢いよくあけると、奥の窓際のベットに松本が横たわっているのが見えた。
松本が居た部屋は六人分くらいのベットがあったけど、今は誰も使っていないらしく、病室には、ぴくりともしない松本と私の二人だけだった。
「ま、つもと、まつもと、松本、松本」
私は「松本」以外の言葉を知らない人間みたいに、ただ彼の名前を繰り返しながら、松本の傍に駆け寄った。
松本は一割くらい体の大きさを縮められた様に見えて、唇なんかアジの干物みたいに乾いてて、もともと細いのにさらに細くなった様な気がする手首は白い毛布の上に投げ出されていて、左腕には点滴の針が刺さっていて、私は松本はなにか重大な病気にかかってしまったんだととっさに思い込んだ。
いやだ松本死なないで、死なないで、死なないで。
私は無意識のうちに松本のベットの枕元にしゃがみ込んで、投げ出されている松本の左手を両手で握った。
私より少し大きな手のひらだったけど、かさかさに乾いていて骨ばってごつごつしていた。
午後の太陽の光は窓から柔らかく降り注ぎ松本の顔をより一層白くみせた。
そんな松本を見ていたら凄く不安になったので目をぎゅっと閉じた。
酷い耳鳴りがして、頭がガンガンする。
それらを振り払うように私は心の中で唱えた。
死なないで死なないで死なないで 「死なないで」
「死なないで、って何」
墓石のように静かだった病室に、松本の少し高い掠れた声が響いた。
はっとして顔を上げると、松本はベットに横たわったまま、濃い紺色の隈をくっつけた目で私をじっと見ていた。
「勝手に、殺さないでくれる」
微かに苦笑しながらそう言う彼を見て、私は今までで最も大きな安心の波が私を飲み込むのを感じた。
冷凍された牛肉のように固まった全身の筋肉が、一気に緩むのが分った。
私は痺れた喉から、一生懸命言葉を搾り出した。
「だって、松本、大変な病気だって、違うの?」
「誰が言ったの、それ」
「私が、勝手に、思った、ん、だけど」
そういうと彼はすこし驚いたような表情で私を見た。
私はなんとなく自分が勘違いをしていたことに気付いて、急に恥ずかしくなって顔を背けた。
「ああ、そうか、ごめん」
そういうと松本は可笑しくてたまらない、という風に仰向いたままこらえるように笑い出した。
「なんで笑うの」
ああ、やっぱり私は勘違いしていたんだ。
確信するとさらに、恥ずかしさで一杯になって、頬が熱くなるのが分った。
松本はまだ体を震わせて小さく笑っている。
「貧血でね、倒れただけ。ねえ、ごめんって。そんなに怒んないで」
怒ってない、私がそういうと松本は「僕が悪かったから」と絶対悪いと思っていない表情で言った。
私は徐々に、今にも死にそうだった松本を忘れて、いつもの松本を思い出していった。
私の知ってる松本が今、目の前にいる。
私はそれが、実はとても幸せなことなんじゃないかと、強く思った。
しばらくの沈黙の間に、私と松本の呼吸の音だけが聞こえていた。
「死ぬほど空腹になってみたかったんだ」
松本は、唐突に言い訳するみたいにぽつりといった。
「多くの日本人がそうなのかもしれないけれど、僕は『空腹で死にそうだ』と思ったことがないんだ」
そういってから少し考えて、「満腹で死にそうだと思ったことはあるんだけどね」と彼は笑った。
「きっかけは、なんだったのか分らない。でも僕は突然その事実に気付いて、それからそのことが酷く異様なことなんじゃないかと思ったんだ。空腹を知らないことがね。すごく怖くなった。海の向こうにはお腹をすかせて死んでいく子供達が沢山いて、それなのに僕は『これ以上食べたらもう死んでしまう』って言いながら最後の一口を生ごみとして捨てている。まあ、そのことはとりあえずはいいんだ。僕は、もちろん差別主義者ではないけれど平等主義者ではないし、世界なんてそんなもんだと思ってるからね。ただ、僕はその海の向こうの乾いた大陸で薄っぺらになって死んでいく記録されない子供達の気持ちになってみようとしたんだ。空腹で死んでしまいそうな子供達の気持ちに。まあ、今思えば当然だけど僕には全く想像できなかったよ。そしたら、なんていえば良いんだろうな、とにかく怖くなったんだ、うん。本当の空腹を知らないまま、海の向こうの子供達を分らないまま生きていくのが怖くなってしまった」
彼は天井を見つめたまま、焦点の合わない目で話した。
私は何故か、彼の話に口を挟んではいけない気がして、跪いたまま彼の横顔を眺め、何度も頷いた。
「何も食べないと決心したんだ。死にそうなくらい空腹になってやろうと。そうするしかなかったんだ。そうするしかなくて、僕は、この三日間実際に何も食べずに過ごした。さすがに水は飲んだんだけどね。でもそれも本当に少しで、本能的に体が危機感を感じて飲んだだけなんだ。少なくともそれによって空腹を満たすなんてことはなかった。そして僕は確かに空腹になった、担架で運ばれるほど空腹になった。だけど、まだ『死ぬほど空腹』って訳じゃないらしい」
彼はそんな風に話すことで、物凄く体力を使っているみたいに見えた。
少し息があがっていて、顔色も悪くなっているようだった。
それでも私は、「話はまた今度聞くから今日は休みなさい」とは言えなかった。
私はまた頷きながら、彼の話の続きを待った。
「死んでいく子供達の気持ちになろうと思ったんだ。本当に、馬鹿みたいなんだけど。しかしどうだろう、僕はすぐに病院に搬送され、清潔な衣服に着替えさせられ、ブドウ糖の水溶液を点滴された。友達の女の子が飛んできて、『死なないで』って泣きそうになりながら手を握ってくれて、しかもその手は暖かくてこんなにも柔らかい」
私はそのとき初めて、彼の手を握ったままだったことに気付いた。
慌てて離そうとすると、彼は私の手をぎゅっと握って離せないようにした。
私はただひたすらうつむいて、顔が熱くなっていくのを悟られないようにするしかなかった。
「逆に、馬鹿馬鹿しいほど幸せだと気付いたんだよ」
そう言って彼は長い長いため息をついた。
私がそっと顔を上げると、彼はすでに目を閉じていた。
長い睫が夕方の日差しに濃い影を作り、目の下の隈と境界が曖昧になっていた。
私はそれを眺めながら、彼の悲しみや諦めのようなものがそこに溶け込んでいるような気がして泣きたくなった。
馬鹿馬鹿しいほど幸せだと気付いた。
その事のどこがいけないんだろう。何も悪いことじゃない。むしろそれだけでもいいんじゃないか。そこにある幸せの存在に気付くことが出来ただけでも。
もう寝ても良いかな、疲れた、といいながら彼は私の手を自分の体に引き寄せた。
うん、おやすみなさい、私がそういうと彼は「死にたいくらい、幸せだ」と悲しそうに笑った。
「もしかしたら僕達は、この小さな島に、『幸せな人間』として隔離されているのかもしれないね」
私は眠りに落ちる間際の彼の言葉を黙って聞いていた。