131110 星の臍岩

昼、アリス・リデルと一緒に、空にほど近い草原にいる。
先は崖で、その向こうには谷と山、また草原が広がっていた。
私たちの立つ丘の上には円柱形の大きな岩があり、その上に登れば辺り一帯を見渡すことができそうだった。
私はアリスを呼びながら岩へ向かう。
強い風が吹いていて、何度も斜面を転がり落ちてしまった。
何とか攀じ登り、最後は鳥のように飛翔して岩の上に降りる。

「見て、なんてすばらしい眺めなの」
まるで星の臍にいて、ここから見える世界は生まれた時のままであるかのようだった。
アリスに言う。
「この岩は、遠い昔から地球の土台をしているうちに中が空洞になってしまったの」
だから、岩は独楽やゆりかごのようにかすかに揺れている。
私たちはその揺れに身をゆだね、心地よい気分で目の前に迫っては遠のく景色を眺めた。

「あそこに畑がある」
視界の一角に田園があり、枡目のような生垣で仕切られた畑では、さまざまな色や形の鉱物が育っていた。
私たちは「世界」の入り口にいる。ふとそう思われて胸が鳴った。
「土台」に跪いて身を乗り出すと、眼下の草は緑色に明るく、あまりにもリアルにそよいでいた。

March 2024

雪は降りつもり朝はまだ来ず完全な森の静寂をはじめに破るものは何
凍った湖面がとかれるとき待ち焦がれたように青い波が岸辺に寄せる
いくつもの流れに洗われてゆく朝の川の小石のような石鹸を鏡の前に置く
太古の春を思いつつ木の枝に満ちるマグノリアの花を母と見る
黄色い初蝶はおおきなあたたかな春風にあおられて目を回す

220623 アトリエ

夕暮れ、小さな白い部屋にいる。
三方の壁はガラス張りで、雲ひとつなく透きとおった薄暮の階調が広がっている。
向かいの壁の奥に扉のない出入り口がある。
中央の大きな四角いテーブルが空間の大部分を占めており、ひとりの女性が何か作業をしていた。
私は窓のそばにいて、彼女と英語で会話する。
ここは彼女のアトリエだった。
テーブルの上には何もなく、その人が何をつくっているのかは分からない。
やがて部屋は宵闇に沈んでいく。
天井を見上げると、照明はなかった。
「ここ、灯りがありませんね。暗いけど大丈夫ですか」
とたずねると、
「ええ、だって、これが夜ですから」
とその人は答える。
窓の外ではまだ仄かに発光している空がさっきよりも澄んでいるような気がした。
その人は薄闇の中、テーブルの上で透明な砂でも集めるように手を動かしている。

February 2024

わたしは泣いてはいなかった凍った湖上の風景は自ずと霧に暈けながら
枝葉を離れる花はかがやく吹雪となりやがて澄んだ風になり
恋人はどこにいるのだろう白雲に紛れた雪渓の硬質な光を見抜く
雲に空いた穴から半月がのぞき込んでいるわたしは目を擦る水底の魚
赤子の寝息を聴くように焼きたてのフランスパンに耳を寄せる母

230402 白い人

薄曇りの昼、都市のビルの一室で働いている。
大勢の人々が辺りを行き交い忙しない様子だった。
私も何かを急いでいたような気がする。

ふと窓の外を見ると、一瞬大きな白い影が視界を遮り、我を忘れる。
傍にいた男性はそのことに気づかず、何か別の仕事のために私を部屋から連れ出そうとする。
「急がないと」
「たしかに、急がないと……あの人が来たんだもの。あの人、あの白い人……」
窓の外には灰色の街を背景に舞い上がる人間ほどの大きさの真珠白のモルフォ蝶がいた。
蝶はビルの屋上に降りたようで、居ても立ってもいられない思いに駆られる。

240206 子竜

昼、澄んだ空に向かって聳える雪山の麓にいる。
たえまなく踊る風には山頂との距離はないのだと思う。
その風の一部のように、眼の前に一頭の子どもの竜がいた。
まだ蛇ほどの大きさしかないけれど、なめらかな青緑色の鱗に覆われた細長い体を縄のようにくねらせて、宙に浮いている。
「山との間に子を産んでしまった。それもそうだ」
と思う。
私たちは愛し合い、私たちの愛するこの子は竜なのだ。

January 2024

曇った銀器の中でただ一所磨かれたように飛騨の雪渓が鋭くひかる
風の吹くほうへ倒れて眠る枯れ草たちの色も名前も織りかさねつつ
闇の奥から雪の結晶がただよい落ちる家の軒まで宇宙があふれて
還俗の僧侶らのように静かに山を下る雪解け水がさざ波を連ねて
けむる水面はなみなみと息づいているこどもがひとり湯船にいると

December 2023

ゴルトベルクの響きが止んで蝋燭から立ち昇る永い煙を仰ぐ
蛤の二片をそっと合わせれば離れた半身をひしと懐く
叢に沈めた重い角を持ち上げて牡鹿はふたたび夜を歩く
波を立てずに湯船を去る白髪の老女の背中はうつくしい
なぜそこが帰る場所なのだろうどこも似た森の一角を恋う

November 2023

青い海のほとりに立つ白無垢の花嫁はただ色として美しく
榊と檜の葉を敷いた初牡蠣を空にしてにわかに命がのりうつる
紅葉黄葉の森に一点の暗いトンネルを見つめるうちに冬
冬の衣をまとえば雪虫も白い半纏を装う待ち合わせたように
老女の古今をゆき交う話にきき浸るうち山間の湯はあふれて減らず

October 2023

八ヶ嶽の山麓をやさしく踏みゆく痩身の雲の家族らの歩み
夜深く見惚れる水晶の珠はとめようもなく床へ散る
ふれられはしない蜻蛉たちを散らしつつ枯草の辺をゆく
金の稲穂の蜻蛉が消えたと思えば手の甲にいる
相方のひらく水尾のなかを静かに静かについてゆく鴨の夕暮れ